生きよ 堕ちよ

高校留年~プータロー~文系大学~再受験し医師~内視鏡に魅せられ消化器内科へ

高校留年した僕が医者になった経緯①

今週、車が納車された。初の外車。家用には別に一台あり、僕の通勤用の車であるため、BMWのクーペを選んだ。とても美しく、乗っていて楽しい。

 

家を買った時にも思ったが、高校留年し、プータローもやり、他人に優越感を与える存在でしかなかった僕が、よくここまで人生持ち直したなあと、我ながら感慨深い。

 

高校を留年したわけ 

 

高校留年した経緯は、単純に怠惰だ。病気や留学などの正当な理由はない。働き出して、おっさんになった今でも、はるかにしんどいことに耐えられているのに、どうして10代の僕は学校に行く程度のことができなかったのかと、自分のことながら不思議でしょうがない。吐き気がするほど愚かだ。タイムマシンがあれば、戻ってあの頃の僕に話をしたい。言うこと聞かないだろうけど(笑。

 

高校1年の夏休みにファミレスでバイトをはじめた。時給560円とくそ安かったが、某マOドは500円とさらに安かった。

 

高校は私立の男子校(今は共学になっている)で、自称進学校の定義に当てはまるくらいのレベル。京大1人いるかいないか、阪大、神大10人未満で、KKDRに行けば賢いほう。昔は賢かったらしいが、どんどん凋落した。一番有名な卒業生は、おそらく少し前に亡くなった関西の大御所芸能人。

 

夏休みだけの予定であったが、夏休みが終わってもきてくれと言われ、必要とされているのだと勘違いし(単なる歯車にすぎないのに)、ファミレスで女性もいたことから、そのままずるずるとバイトを続けた。どんどんシフトに組み込まれ、週5日働いていた。平日は17時~22時、土曜日は14 or 15時~22時、日曜日は12時~22時と働いていたため、疲労が蓄積し、朝が起きられなくなってきた。そのため、遅刻が増え、担任にはよく注意されていた。

 

高校1年から2年にはなれたが、この調子で働いていたため、2年でも遅刻は多かった。あまりにきついため、2年の夏でバイトは止めたが、それでも遅刻癖だけはとれなかった。

 

もちろん勉強など全くしておらず、赤点連発であった。高校時代、机に座った記憶はほとんどない。しかし、何とか3年生になることができた。3年生になってからは、遅刻はさらに悪化し、重役出勤の連発であった。

 

バイクに乗るのが面白く、学校に行かずに乗ったり、学校から帰ってきてからもバイクに乗っている地元の仲間とつるんでいた。僕が乗っていたのは、レーサーレプリカで暴走族が好むバイクではないが、中学時代の同級生で暴走族をやっていた連中にとりつかれ、いろいろ辛い思いもした。 

 

受けさせてもらえなかった私立中学

 

少し話がそれる。

小学校時代、6年から塾に行き出したところ、成績がいい感じで伸び、灘とまではいわないが、その下のレベルの中学ならいけるかもというくらいにはなった。しかし、親が諸事情で受けさせてくれず、そのため公立中学校へ進んだ。

 

親にあまり大きな願い事をしたことはなかったが、私立中学を受けさせてくれと何回か頼んだ。それでも駄目であった。受けて落ちていたら、納得していただろうが、受けることさえ許されなかった。やっても報われない。脆弱な僕はそれ以降自主的に勉強をほとんどしなくなった。

 

同僚の医者は皆教育熱心で、子供は灘、洛南などの進学校に通っている子が多い。同僚自身も多くは進学校の出身者である。うちの場合、父親が、あまりレベルの高くない公立高校から、公立の医学部に受かったため(その高校で医学部に受かったのが二人目)、中学受験の必要性を感じていなかった。母親は、そんなところに行っても、勉強できることを鼻にかける碌な人間にならんと言った。

 

失意の中、進んだ中学校はまあまあ荒れていて、よその中学が攻めてきたりするようなこともあった。僕自身、気が弱くて、一本筋の通ったところがないため、ヤンキーの格好の餌食となった。不愉快で思い出したくないのでこれ以上書かないが。

 

私立中学に行くのがよいとは限らないかもしれない。しかし、僕は行きたかったし、地元の公立中学校で碌な目に合わなかったため、行っておいたほうがよかったと考えている(そうすればもっと早く医者になってただろうし)。僕のように意志が弱い人間は、周りが勉強しているのが当たり前という環境に身を置くことに意義がある。超進学校出身の大学の同級生には、弁護士や官僚などが普通に中高の同級生にいて、その人脈を羨ましく思ったこともある。

 

自分の子供が嫌がれば行かせないが、僕のように行きたいと希望すれば機会は与えてやりたい。

 

ヤンキーはヤンキーでつるんどいてよ 

 

話をもどすが、中学時代のヤンキー連中が、暴走族へとジョブチェンジをし(僕の知る限りでは極道になったものはいないが、犯罪者までいってしまったものはいた)、バイクに乗っているという共通項しかない僕に目を付けた。

 

今では暴走族は絶滅危惧種(今日久しぶりに見た)だが、そのころはまだ結構いた。僕自身は大きな音を出して、のろのろ走っても楽しくない(僕は走り屋のまねごとをして、峠を攻めたりしていた。どっちも碌なものではなく、五十歩百歩だが)。しかし、たまり場に連れて行かれたり、パシらされたりしていた。

 

ある時など、皆がシンナーでラリっている場に連れて行かれ、かめはめ波がでるからみとけと言われ、ほらでたやろと初対面のラリポッパーに同意を求められたり、別の時には鑑別所のパンはまずいと、「知らんがな」という話を延々聞かされたりと本当に苦痛で無為な時間を過ごさせられた。

 

そして留年へ

 

ほぼ自業自得だが、こんな生活を送っていて、さらにさぼり癖がついていた僕はますます遅刻を重ねていた。親の注意は全く聞かなかった。つるんでしょーもないことをする同級生が何人かいたので、遅刻しても学校自体は行っていた(僕より欠席が多かった同級生が卒業できていた)。

 

ある日、卒業が危ぶまれる連中が担任に呼びだされた。皆、色々注意をされていたが、僕は「お前は大丈夫や」としか言われなかった。ダントツでやばいはずなのに、なんで?と思ったが、おバカな僕は真に受けていた(留年した時、大丈夫っていうたやんと逆ギレしていた)。もう手の施しようがなくて、担任もそういうしかなかったんだろう。頭に花が咲いている僕だけが気づいていなかった。

 

ようやく少し焦ったのか、学校に朝から行ったら、おっOOが朝から来たぞ、拍手やと担任に言われ、皆に拍手をされ、照れたりしていた。その場にタイムスリップして、はにかんでる過去の自分をぼこぼこにしたい。バカにされているんやぞ、気づけと罵倒したい。

 

当然のごとく卒業できず、二度目の3年生をやることとなった。

人生の落後者だ、俺はもう駄目な人間だと強烈に思った。これまでの40数年の人生を振り返ってみても、その時ほど一番強くそう思った瞬間はない。

 

長くなったので、一旦区切る。

今日はここまで。