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生きよ 堕ちよ

高校留年~プータロー~文系大学~再受験し医師~内視鏡に魅せられ消化器内科へ

高校留年した僕が医者になった経緯④

高校留年した僕が医者になった経緯

今日の夜はオンコール。今のところ、呼ばれていないが、病院で待機中。

 

憧れていた関学

 

続きを書く。

関学に入学した僕は、人より遅れたがやっと普通のことができるようになったと、最初は大学に真面目に通っていた。

昔から関学に憧れがあった。おしゃれで頭も悪くない(もっともおしゃれなものばかりでなく、シャツが出たり入ったりした恰好で、漫画を読みながら歩き電柱に激突しているパンチが効いた者もいた)。KO boyではないが、KG boyなんておしゃれな呼び方もある(兵庫県出身の女性に聞いても知らない子が多かったが、そんなの関係ない)。プータロー時代、飲み屋で身分を聞かれた時、大学生と連れが答えた。どこの大学?と聞かれた時、僕は関学と詐称した。それくらい(?)憧れていた。

 

関学はアメフトが強いが、それゆえに経験者や体力に自信あるものが、自然にきて入部するのだろうと思っていた。しかし、それだけではなく、勧誘もすごかった(高校の同級生で運動神経のよい経験者が、関学のアメフト部に入部していたが、層が厚過ぎてレギュラーにはなれなかった)。

 

身長こそ180cmあるが、体を動かすのが大嫌いでぶくぶく太っているだけなのに(歩いて行った方が速いコンビニにもバイクで行っていた)、結構な勢いで勧誘された。一人振り切ったと思えば、また一人と。

体が弱いんでと言って断っていたが、またまたあと誰も信じてはくれなかった。しかし、実際その時の僕には気がかりなことがあった。

 

最低の病状説明(医師への布石の一つ) 

 

受験のための健康診断で、肺に陰影を指摘されたと書いたが、大学に入学する前の休みの間に某病院へ入院して検査を受けていた。できて間もないMRIをとり、気管支鏡もされた。水がちょっと入っただけでげほげほむせる気管に内視鏡を入れるのだから、しんどくないわけがない。病室から検査室まで車いすで運ばれたので、恥ずかしかったが、帰りはぐったりし、恥ずかしさなどどうでもよかった。

 

そして、担当医から検査の結果説明があり、母親と一緒に聞いた。これが今まで聞いた中でも最低の説明であった。

 

「気管支鏡での病理の結果では、リポーマと思われるが、リポザルコーマが否定できない…。」

専門用語を一切噛み砕かずにだーっと説明し、横にいた若い医者がその都度通訳のように日本語で補足していたが、その時は何がなんやらさっぱりわからなかった。

自分が医師になったので、あの時こう言っていたのだろうなと推測できるが、そうでなかったら、今でもよくわからないままだろう。

 

で、肺の腫瘍は良性の腫瘍(脂肪腫、リポーマ)と思われるが、悪性の腫瘍(脂肪肉腫、リポザルコーマ)になりうるから手術が必要だと言っているらしいことがようやくわかった。

今となっては、専門用語をまくしたてて、患者を怯えさせて手術に持ち込もうとしたとしか思えない。脂肪腫で開胸手術はオーバーサージェリーだ。今の時代であれば、こんな病状説明は決して許されない。

 

病状説明をムンテラというが、ドイツ語のMund(口)+Therapie(治療)を組み合わせた造語である。治療という言葉が入っているが、僕が受けたムンテラはまったく治療に結びつかず、不信感だけが残った。この時代は医者のパターナリズム(父権主義。極論すれば、俺の言うことを黙って聞いとけということ)がまだまかり通っている時代だった。

 

肺のことは専門外だが、消化器領域で脂肪腫はしょっちゅう見る(脂肪腫がらみの論文も書いた)。しかし、脂肪肉腫になることは珍しい。というか、10年以上臨床やってきて、後腹膜の肉腫は何例か経験があるが、脂肪肉腫には出会ったことがない(と書いたが、1例経験していた)。

 

こんな状態で手術を受けろといわれても、素人の僕でも納得ができず、大学に入ったばかりであるので、夏休みまで待ってほしいといい、経過観察をすることとなった。最初の何回かは通ったが、どうしても手術を受ける気にならず、そのうち行かなくなった。

 

病名判明

 

後日、医学部入学後、大学病院で精査を受けるように言われ、MRIを撮ったところ、横隔膜ヘルニアであると診断された。おなかの中の臓器(おそらく大網)が横隔膜の穴を通じて肺の方にいっているのだろうと言われた。もちろん手術は必要なし。研修医の時も検査を受けるように言われ受けたが、同じ診断であった。

 

気管支鏡で何の組織をとってきたのだろうか? 脂肪腫と間違えるくらいだから、脂肪の多い大網だったのだろう。これで手術をしていたら、どうなっていたのだろうか? 昔だから、よかったですね、腫瘍じゃなかったですよ、おなかの臓器でしたとでも言うのだろうか。残るのは大きい傷だけ。

 

こんな誤診をされ、病状説明も最低であったが、この病院自体は関西で有名な病院である(それゆえ最初の病院もここへ紹介したのだろう)。後期研修医の時に、ひょんなことでこの病院へ異動するという話が出た。結局は、よくわからないパワーゲームでつぶれた(関連病院やら医局やらの話)のだが、上記のことで印象は最悪だったので(異動について父親に相談した時も、普段は日和見で意見をはっきり言わない父親が、この時は強く反対した。勧誘してきたやつが傲慢で恩着せがましかったこともある)、つぶれてよかったと思っている。

 

大病院を好み、大病院だから無条件によいと考える、大病院志向の人は一定の割合でいるが(患者だけでなく、医師でもいる。中小規模の病院をバカにする者もいる)、僕はこれを境に大病院だからといっていいとは限らないということを学習した。今、僕が勤めている病院もいわゆる大病院だが、いい点、悪い点どちらもある。中小規模の病院の方がよいこともたくさんある。

 

将来を考えなかったつけと関学への失望

 

話を戻す。そういうわけで、体育会はもちろんサークルにも入らなかった。

色々な授業に出てみて、最初は真面目に聞いていたが、そのうち、ん?あれ?と思い出した。まったく興味をそそられない。教養の授業であるため、そんなに面白いものではないのが普通だが、それでもつまらなかった(医学部の時の教養はまあまあ面白かった)。

 

ゼミの雰囲気を味あわせようということで、1回生にもゼミがあったが、それがまた激烈につまらなかった。英語担当の教授であるが、なぜか夏目漱石の評論を読んで、それについてレポートを書き、皆の前で発表するようにと言われた。

 

評論の評論?なんじゃそら、隔靴掻痒すぎるわ。しかも英語担当やのに夏目漱石?英文学でいいんちゃうの?と色々???はあったが、何回かは出席した。建設的な意見を交わしたり、文章の書き方を指導することはなく、学生の書いてきたものにひたすらケチをつけるだけという稚拙なゼミであった。

僕と同じように思ったものがいたようで、一人夏目漱石の小説についてのレポートを書き、発表したものがいた。詳しくは忘れたが、なかなかいいことを言っているなとその時は感じた。しかし、教授は、自分が指示した事と違うと一瞬で却下し、やり直すように言った。柔軟に対応して、そのことをネタに議論して、その後で次回からはルールに則るようにと注意すれば、尊敬したかもしれない。

その日を最後にそのゼミには出なくなった。

 

遅まきながら何をしたいか考えた

 

そもそも、大学に入ること自体が目的で、こういう勉強がしたい、この仕事に就きたいということを全く考えたことがなかった。本当に愚かだと自分でも思うが、ここで初めて自分のやりたいことはなんだと考えた。

 

子供のころは父親を尊敬していたので医師になりたかった。しかし、勉強の意欲がそがれ、また反抗期を迎え、そんなことは忘却の彼方に追いやられていた。

文学で身を立てたいと思ったこともあったが、書けるのはレベルの極めて低い私小説で、自分ですら読んでて吐き気がする代物だった。センスが絶望的になかった。

DJになりたいと思ったこともあったが、なり方がよくわからなかった(医師になってCDJを買ったが、まったく使いこなせないまま、埃をかぶっている)。

 

そして年齢的には3浪だ。就職するなら経済学部やろと選んだのに、普通の企業は年齢ではじかれてしまうということを入学してから知った。

 

こんな心境だから、教養の授業も面白くない。なんとか前期は乗りきったが、夏休み中にこれらのことを悶々と考えた。

 

医師への第一歩?  再度受験生へ

 

そして子供のころの夢であった医師になろうと思い、親にそれを告げた。申し訳ないが、もう一度受験をさせてほしいと。医師になれば、遅れて入っても、とりあえず食ってはいけるという打算的な思いもあった。カッコいいことを言うと、最低の病状説明をした医師をみて、あれじゃだめだと思ったこともある。他にも思うところがあり、こういったことが複合的に重なって、医師になろうと思った。

 

そして、後期の学費は払わずに受験勉強に戻った(関学に払った入学金と授業料がもったいないと医師になってからも言われ続けたので、働き出してから色を付けて返した)。しかし、今の実力では到底医学部を狙えるレベルではない。しかも、理科はセンターでちょろっと生物をやった程度で、点数も悪かった。そのため物理と化学をやろうと思い、手を付けだしたが、これがさっぱりわからなかった。さらに英語と数学のレベルも上げる必要がある。

 

あと半年で医学部に受かるレベルに持っていけないのは明らかであった。今年はあきらめて、さらに一年後の合格を目指すべきであったが、すでに遅れをとっているこの時の僕に、その選択肢はなかった。親にも到底そんなことは言えず、なんとか次の年で決めたかった。

 

ななめ上の選択

 

そしてぶれまくった僕は、将来食っていけるという世俗的な点だけを考え、司法試験を受けようと斜め上の選択をした。そして、司法試験を受けるのなら、京大くらい行かないと受からないだろうと考え、京大法学部に進路を変更した。それなら文系科目だけを伸ばせばいいという打算もあった。どこかで地学が点を取りやすいと聞いて、センターの理科は地学にした。

 

このようにぶれた目標であったが、勉強はまじめにやった(二次の社会だけは配点が低いこともあり、教科書を1回読み終わったのが、試験前日であった)。やはり宅浪を選んだが、近くにあるのに中に入ったことがなかった予備校で、大学別模試だけだが、模試を初めて受けた。

 

京大模試を二つの予備校で受けたが、駿台でB判定(後期はA判定)がでたが、河合は最低の判定であった。バカな僕は悪い方から目をそらし、良い方だけを見て、これはいけるかもと思った。

 

高校の同級生が来た時に、また受験生に戻ることを伝えたら、あきれ顔であった。そりゃそうだと自分でも思う。

 

センター試験の願書を去年と同じところにもらいに行った。その後も勉強を続け、センター試験を迎えた。センター試験は800点中700弱であった。旺文社と駿台にリサーチを出し、どちらもボーダーには届いていなかったが、昨年同様何も考えずに京大に願書を出した。

 

1月17日に阪神大震災が起こった。寝ていたが、さすがに飛び起きた。うちは本が落ちたくらいで、でかい地震だったなとまた寝たが、起きてからテレビを見て大惨事であることを知り、驚いた。

 

関学の授業料は払っていなかったが、一向に除籍にならないので、しかたなく退学手続きに行った。地震の爪痕は生々しく、大学でも、他の学生がOO先生は大丈夫ですかと心配している中、退学手続きをするのは心苦しかった。しかし、漱石教授にハンコをもらいにいった時に嫌味を言われ(内容は忘れたが)、不愉快な思いをしたので心苦しさは消えてしまった。

 

ぶれぶれの目標はやはり弱い 当然ともいえる不合格 

 

そんな中受けた京大だが、やはりモチベーションがぶれぶれであったためか、前期後期ともに落ちた。前期の試験官はテレビで見たことあった高坂教授で、こんな有名な先生も試験官をするんだなと思ったのを覚えている。後期は、自分としては会心の出来であったが、それでも駄目であった。

 

関学同様、京大もアメフトが強いが、試験の帰りにアメフト部の人にかなりしつこく勧誘された。え、受かるかどうかわかりませんよと言ったが、いやあ、受かるでしょと言われた。落ちてすいません(笑。

 

医学部で入った大学では全く勧誘されなかった(医学部のラグビー部は誘われた)が、強豪校とそうでない大学の差はこういうところからも出るのだなと思った(医学部のラグビー部も医学部レベルでは強かった)。

 

後期は受かると思っていたので、落ちた時にはショックが大きく、また根なし草になってしまった、人生再落伍だと落ち込んだ。しばらくは気力がわいてこず、ちょうどオウム事件と重なり、ワイドショーをずっと見ていた

 

今のところ、呼ばれておらず。一旦家に帰ろうかな。

今日はここまで。