生きよ 堕ちよ

高校留年~プータロー~文系大学~再受験し医師~内視鏡に魅せられ消化器内科へ

研修医時代の思い出① 総論

今日は家族で潮干狩りのため毎年行っている海岸へ。GW中ということもあり、結構な混み具合であった。

潮干狩りというよりも貝拾いであり、定期的に貝がばらまかれ、子供たちが殺到する。こんなん潮干狩りと違うと、どこかのお父さんが口にしていたが、まさにその通りだ。

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今日の成果。取ったものは持って帰ることができず、帰りにお土産でちゃんと処理した貝をもらえる。その後BBQをし帰宅。帰りの車では皆爆睡だった。

 

ふと研修時代のことを思い出したので、つらつらと書いてみる。

僕らのころは、今と違ってまだ大学で研修する方が一般的で、外病院で研修するほうが少数派だった。大学病院よりも実臨床が学べるかなと思い、僕は外病院での研修を選んだ。病院選びは結構適当で、有名病院も受けたし中規模病院も受けた。

高校留年から医師になった経緯に書いたように僕の経歴はぼろぼろで(よく医学部に入れてくれたなと母校の懐の太さに感謝はしているが、その割に大学病院で研修もしていないし、入局もしていないし、同窓会費も払っていない)、このぼろぼろの経歴で有名病院は無理だろうと自分でも思っていたが、大学の成績はまあまあ良い方だったので、ひょっとしてと思って受けた。しかし案の定ダメであり、最初に受かった中規模病院に行くことにした。

 僕はその中規模病院がある地域のことをよく知らなかったが、なかなかディープな場所で、合格した後に同級生に「なんでそんなところ行くん? やめとき。」と言われた。彼はその地域のパチンコ屋でアルバイトをしていた時に「にーちゃん、球だしてや。」と言われ、無理だというと、本物か偽物か知らないが、拳銃を出されて脅されたらしい。

ギャング映画は結構好きで、Boyz n the hoodやjuiceは何度も見たし、生まれ変わったらムキムキでラップができる黒人になりたいとは思っていたが、日本で環境だけ先取りするのはごめんだった。そんな話を聞かされて不安になったが、もう後の祭りであり、そこで研修するしかなかった。

 

研修をした病院は400床足らずの病院で、今は外病院での研修がメインになり、まあまあ人気らしいが、僕らの頃は定員7人のところ、直前で1人が別の病院に行き、6人と定員割れであった。みな別々の大学で、6人中3人が再受験生であった。

研修前の講義が長かったが、あまり内容は覚えていない。模擬外来で、同期にダメ出しされたのと、同期同士の探り探りの会話で、海外旅行の話が盛り上がっていた時、海外に行ったことがなかった僕だけ入れずにポツンとしていたことはよく覚えている(笑。

 

同期とはすぐに仲良くなり、研修が始まったころ行われた日韓ワールドカップを皆で一緒に見ていた。研修をしていたのは15年ほど前になるが、今でも定期的に食事に行ったり、飲みに行ったりしている。

研修医の頃は、ICUブックの英語版を買って皆で抄読会をしたりと勉強もしたが、まあまあ遊んでいた。研修医2年目の時にボウリングがなぜか流行り、後輩も含め皆で仕事を早く終わらせて、近くのボウリング場に行っていた。投げることがメインであるため、2人で1レーンを使い、たくさんのゲームをこなしていた。

皆どんどん上手くなり、200を越えるものも結構いた。一人は専用の靴を買い、200を越えたら、ボールを買うと言っていたが、200を越えたのに買わなかった。買ったら伝説だったのに(笑。

僕は最高180くらいで残念ながら200は超えなかったが、昔は100ちょぼちょぼだったことを考えるとかなり上達した。数年前にやったら、また100ちょぼちょぼだったけど。

 

内科持ち回りで、救急外来にくる内科患者の時間内対応をしないといけなかったが、これは研修医の仕事にさせられていた(押し付けられていた)。最初は率先だってやっていたが、慣れてくると苦痛であり(それゆえ押しつけたのだろう)、嫌だった。僕が専攻医になると、研修医に押し付けてはだめということになり、結局いつまでたっても自分で見る羽目になった。

優しいナースもいたが、嫌なナースもおり、こういう時はよい記憶より悪い記憶のほうがよく残るもので、いじわるなナースの方が印象深い(笑。研修が進むにつれて、こちらもそれなりにできるようになってくると、嫌な態度を取られることも減っていった。

長くなったのでいったん区切る。

 

今日の体重は76.7㎏。肩の筋トレとドラゴンフラッグをした。