生きよ 堕ちよ

高校留年~プータロー~文系大学~再受験し医師~内視鏡に魅せられ消化器内科へ

奪われた論文の思い出

型式だけの部長からのヒヤリングで今年の目標を聞かれた時、論文を2つ書くと言ったが、今の段階で全く手をつけていない。やらなあかんなあと思っているが、どうしてもやる気スイッチが入らない。同時に数本書いていた時の僕は、どのスイッチが入っていたのだろうか? スイッチが入っていないにもかかわらず、英文誌から査読依頼が来た。基本断らないようにしているので、受けるつもりだが、自分の論文はさらに遠のいていく。

 

以前、医療関係のメーリングサイトのある記事を読んでいたら、ある高名な先生の記事があった。その中に自分がメインでやった研究のスーパーバイザーに、学会発表は君がファーストでよいが、論文は私をファーストにしなさいと言われたという記載があった。

学会発表は抄録に残るくらいだが、論文はそのまま形としてほぼ永続的に残る(STAP細胞のようにならない限り)。極端な話、どんなに素晴らしいネタでも、学会発表だけして論文化していないければ、誰か違う者に論文化されても文句は言えない。

 

上の高名な先生の例とは、スケールからしてかなり異なるが、僕も論文に関してはファーストオーサーからセカンドオーサーに望まずしてなったことがあったので、その思い出を吐露してみる。

 

後期研修医の3年時(医師になって5年目)に、結構珍しい症例を経験した。当時の病院の病理の先生が非協力的であった(色々聞いていたら、しつこいと怒られた)ので、ある大学の病理の先生に見てもらいに行った。そこで、これは非常に珍しいので英語で論文にしなさいと言われた。

その時の指導医の先生が、英語で書かれても指導できないので、日本語で書くようにと言った。英語も日本語も論文を書いたことはなく(研修医の時に経験した珍しい症例で論文を書こうと思い、上級医に指導を頼んだら、嫌だと言われたことがあった)、書き方もよくわからなかったが、とりあえず自分なりに書いて指導医に渡した。

校正はいつまでたっても返ってこず、専攻医が終わる時期がきて、違う病院に赴任することになった。その後、数年経過し、僕もその論文のことは失念し、異なる論文をいくつか書いていた。

 

5~6年たった時、唐突に指導医から連絡が来て、論文を直したから投稿するようにと言われ、ある学会誌に投稿した。しばらくして返答があり、まあまあ厳しく突っ込まれていた。自分で直そうとも思ったが、まずは指導医の意向を聞こうと思い、その返答を転送した。

指導医からはしばらく検討すると返答があった。こちらも忙しかったこともあり、他の論文も書いていたため、正直失念していた。

 

数カ月して指導医から連絡があり、自分の名前をファーストにして別の学会誌に投稿したから、以前の投稿は取り消しておいたと連絡があった(実際は取り消されておらず、僕が後で取り消した)。

えっ?と思ったが、その時は自分の論文も書いていたし、そんなものなのか、まあええかと思い、わかりましたと返答した。

しばらくして、上司の先生にこんなことがあったんですよと話をしたら、その先生がそれはおかしいと怒りだした。やはりおかしなことだったんだなとその時理解した(ぼーっとアホ面してた僕を見て、「先生がもっと怒らなあかんで。」と僕も怒られた)。

昔からだが、僕の怒りのツボはずれているようだ(さらに怒りがあまり持続しない)。怒るべき時に怒らず、どうでもいいところで切れていることがある。この時もそうだったようだ。

その先生とは今も研究会などで会うが、お世話になったことは事実であるので、特に僕的には遺恨はなく、普通に話している。

 

上の高名な先生は、上記の提案をされた時に断固として断り、それでも無理にそうするのであれば訴訟するといったそうだ。偉くなる先生は一本筋が通っている。僕は偉くなれないわ(それ以前に偉くなる人は高校ダブらんわな)。

僕が治療や診断をした患者の論文を何本か後輩に書いてもらったが、当然僕はセカンドオーサーだ。校正もやった。当たり前のことを書いているが、当たり前でない場合もある。大人の世界は怖いわ~。

 

今日の体重は74.9㎏。 肩と足の筋トレをやった。