生きよ 堕ちよ

高校留年~プータロー~文系大学~再受験し医師~内視鏡に魅せられ消化器内科へ

生きよ、堕ちよ

川崎で痛ましい事件があった。その犯人に対して、死ぬのなら一人で死ね、いやそれは違うという議論をネットで見た。

一人で死ねという発言がきっかけで、同じような環境にあるものの犯罪を誘発する可能性があるという主旨らしい。

 

こんな記事も見た。以下、引用。

「(Q.事件絡みでマスコミから取材がかなりきているかと思いますけども、それについては?)論点がずれているんじゃないかなと思います。引きこもりの人に一人で死んでしまえは間違っています。完全に。意味が分からない。一人で悩んで一人で自己完結して一人で死んでくれ、それは暴論だと思います。コメンテーターの方のご意見もそれも一つの意見だと思います。ただ、大きな大皿で一くくりにはしてほしくないなと。それは間違いなく思います。色んな要因が重なって今回の事件が起きただけで、そのごく一部の側面だと思う。引きこもりというキーワードは。100、200ある側面のただ一つだけを切り取って、引きこもりというキーワードだけが一人歩きしていくのはすごく嫌だな。我々も言葉としてちゃんと表現したい」

 

‥引きこもりに死ねとは誰も言っていないのでは? 精神障害者の犯罪率が高くないように、引きこもりの犯罪率も高くないと思われる。今回の犯人が引きこもりであったことと、事件の因果関係は不明だ。

「一人で死ね」には「他人(多くの場合、自分より弱いもの)を巻き込んで死ぬくらいなら」という枕詞がつく。もちろん、「死ぬな、生きよ」という大前提があっての話だ。

 

しかし、引きこもりに死ねとまでは言わないにしても、今回の犯罪を引きこもりと関連付ける風潮はゼロではない気がする。不確かな状態は不安で、わかりやすい答えを求めたがるのはある意味必然だ。正しいとは限らないが。

僕も20歳のころのままであれば、今頃引きこもっている可能性は高い。1年ほど引きこもり生活をしてみて思ったのは、僕には長期間耐えられないなということであった。あの頃は、同じようなプータローが何人かいたので、彼らと遊ぶくらいのことはしていたが、それでも全く前を向いておらず、何をしていても表層の楽しみしかなかった。

引きこもっていても、僕は自死は選んでいないだろう。死が怖いからだ。「悪霊」でキリーロフは、人間に自殺を思いとどまらせる理由は、小さなものが痛みで、大きなものがあの世だと述べた。もちろんこれだけではなく、もっと複合的な理由があるだろうが、キリーロフの自殺論を読んだ時、主人公のスタヴローギンよりもキリーロフの方に強い興味を抱き、大学1回生時のレポートにもキリーロフについて触れた。

人それぞれ背負っているものは全く異なるが、立ち入ることが許される距離の人には「生きよ、堕ちよ」と言いたい。

 

土曜日に小学校の運動会があった。午前中は仕事であり、内視鏡が6件入っていた。3件が下部で3件が上部であった。若い先生に、子供の運動会があるんで申し訳ないが下部は僕がさせてもらって、上部を先生に任せるわといった。

しかし、どこか焦っていたのだろう、挿入のバランスが狂ってしまって、スムーズにはいかなかった。それでも12時過ぎには病院を出ることができたので、午後からは見学することができた。

午前のリレーは娘、息子ともに先頭ランナーで一位でゴールしたらしい。息子は有志の音楽隊で太鼓をたたき、運動会の雑用がかり?も引き受けており、リレーのゴールのテープ係をしたり、旗を持って走り回っていた。娘も楽しそうに走ったり、踊ったりしていた。

狭い学校で座るところもろくになく、ずっといると疲れるので、午後からくらいがちょうどよかった。

 

今日の体重は76.6㎏。今日は、僕の誕生祝とのことで、夜に焼き肉をし(家が今でも臭い)、ケーキを食べた。この年になると誕生日自体はうれしくないが、妻と子供らが書いてくれた手紙とプレゼント(息子はアイス、娘は漬物)はうれしかった。