生きよ 堕ちよ

高校留年~プータロー~文系大学~再受験し医師~内視鏡に魅せられ消化器内科へ

偽医者ばれた(笑

早くもGWの当直のくじ引きを行った。こんなに早く決めなくても、4月からくる新任の医師が来てから決めればいいと思うが(彼らも入れられているし)、quality of life(QOL)重視の医師が率先だって段取りした。

4月から来る1年目専攻医のバックアップをし、好きなところを選ぶというwin-winの権利(元々は2枠をする代わりに、1枠好きなところで1年目専攻医を表に出してバックアップするというものだったが、いつのまにかこのように変わった)をQOL重視の医師二人が抽選前にさっさと取った(ここ数年専攻医は二人おり、毎年同じ二人が立候補して取っている)。処置が終わっておらず参加できていない医師も数人いたが、有無を言わさずだった(僕も一度こういうことがあったが、この時はくじ運がよくて免除された)。

大体こういうところに一所懸命な人と普段の仕事量は比例しない。どうせ予定はないし、どこでもいいので、普通に抽選に参加した。

 

今日のCSは7件。件数が24件で当番が5人(ヘルプも2~3人いた)いて、さあ一人あたりは何件?と小3の息子に聞いたら5と即答した。上二人のスタッフの件数は合わせても僕一人分より少ない。僕自身のESD、DB-ERCPなどの処置がない時は大体こんな感じだ。休みに一生懸命になる前にやることがあるのではないかと思ってしまう。

しかも、そのうちの1件はVIPのEMR。いつも医事課の人が外来に着いてくるし、入院する時は特別室に入る。なぜか見込まれてしまい、僕を希望される。癒着があって挿入が難しいので、入院EMRの時は鎮静下で行っている。いつもは10個以上ポリープがあり、1時間以上かかるが、今日はCSPを多用したこともあり、7個処置し30分で終わった。 

 

やはり吐き出すとすっきりする。カタルシスは偉大だ。

話しは変わるが、僕のメールボックスは1番下だ。年功序列で順番を決めれば、僕は1番上になるはずだったのに、病院の怠慢で一人の先生が僕より後になったため、そうなった。

科内で一番背が高いのになんでやねんとおもっていたら、今日張り紙がしてあって、メールボックスの場所が変わりますので、できるだけ空にしておいてくださいと書いてあった。多くのボックスに貼ってあったので、かなり大幅に入れ替えるようだ。新しいボックスは真ん中ちかくであったので、これでいちいちボックスを見るのに屈まずにすむわと喜んでいた。

ふと張り紙を見ると、他の張り紙にはOO先生と書いてあるのに、僕だけOOさまと書いてあった。

‥いや、別にええねんけど、偽医者ばれたんかと思ってどきっとするわ(笑。ええ、どうせ僕の免許は仮免許ですよ(仮免許制度は本当はありませんので悪しからず)。

研修医の時の同期が勤めていた病院に偽医者がいて問題となったが、人柄はかなりよかったらしい。しかし医師なら誰でも知っていることを知らなかったりして、おかしいと思われていたそう。

 

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東日本大震災で医者を騙った男が、医師であることを証明するために提出したものをネットから拾ってきた。

そうそう、これこれ‥とはならんわ(笑。ネットで医師免許証で画像検索したら、あほほど出てくるのになんでこんなちゃちい偽造を(笑。

 

今日の体重は76.7㎏。今は筋トレに重きを置いているが、もう一段開脂肪を落としにかかろうかな。

PTPは切ったらあかん

今日は昼のオンコール。昨日の同期との食事の際、一人の同期に僕は明日相撲を見に行くけど、明日何するの?と聞かれ、オンコールだと答えたら、オンコールといってもどうせ呼ばれないんでしょと言われた。

いやいや、うちの病院は呼ばれないほうが珍しいよと答えた。呼ばれなくても、病院で待機することにしているため、本日も9時半ごろに病院でワイドナショーでも見るかと玄関に向かったら、早速病院からコール。

外科の先生からで、術後の胆汁ろうの人にENBDを入れてほしいと依頼あり。わかりましたと答え、病院に向かったら、着く寸前にまた電話がかかってきた。内科の病棟日直の先生から、緊急入院した患者のことで相談あり。もうすぐ着くので対応しておきますと答えて電話を切った。

病院で緊急内視鏡の段取りや、病棟患者の対応をしていると、今度は内科のER担当の先生から、血便患者がERにいるとコールあり。

これは先が思いやられるなと思いながら、一つ一つこなしていくことにした。まず、緊急ERCPから。食道癌術後で若干やりにくかったが、たまたまいた後輩にも手伝ってもらい、ENBD留置に成功した。

つづいて、血便患者に大腸内視鏡を行った。大腸癌術後の患者で、1週間前にも血便あり、直腸の吻合部近傍から出血していたが、深くえぐれていて、内視鏡止血は困難と判断されていた。

今日も凝血塊がたっぷりあり、指と吸引で可能な限り除去したところ、吻合部近くのえぐれた部位からじわっとoozingしていた。抗血栓剤を内服しており、そのため、いたるところからじわっと出血していたが、こういう出血は内視鏡的な止血は難しい。そもそもえぐれた部位の壁はぺらぺらで、いくら直腸とはいえクリップや焼灼も怖い。トロンビンをまくに留めた。

 内視鏡の合間に昼食はかきこんでいたが、入院指示を出したり、病棟を回ったりして、一息付けたのは15時過ぎだった。今頃、同期は桝席で相撲を見ているのだと思うと、涙が出そうになった(笑。

このまま逃げ切れるかと思ったが、4時半ごろに異物誤飲のコンサルトあり。薬の包装(PTP)ごとの誤飲で高齢者ではよくある。PTPは誤飲を防ぐため、2錠を一つの包装としているが、管理しやすいようにわざわざ鋏で切って1錠ずつにする人が結構いて、それをそのまま飲み込む人も結構いる。鋏で角を鈍に切ってくれていればいいが、そんなことをしている人はいないので、角はごっついとがっている。今日も除去時に食道を少し傷つけた。切らないでくださいねといい、帰宅願った。

 

以前買ったfallout4にXbox oneで行えるfallout3のコードが同封されており、ダウンロードだけしていたが、数日前からやり始めた。2008年発売のゲームで、何回かクリアしているが、今やっても全く古臭くない。過去の記憶も薄れており、今のところ面白い。

今日の体重は76.2㎏。今日は腹筋とスクワットを軽くするにとどめた。

まあまあ暗黒の中学時代⑤ 中3 part2

今日は、研修医の時の同期と後輩と年に1回のプチ同窓会の日。毎年美味しいスペアリブを食べさせてくれる店に行っている。夜は一組限定であるため、貸し切り状態だ。研修医時代の思い出話に花が咲き、少々下品な話も(笑。

研修医時代は楽しかった。今は楽しくないという意見で皆一致した。同じ釜の飯を食ったというのは貴重な経験だ。

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続きを書く。

中3の1年間はこんな状態であったため、勉強できる精神状態ではなかった。そもそも勉強に対する熱意を失っていたが。ほとんど勉強していなかったが、真ん中よりは上くらいにはいた。

親は私立中学を受けさせなかったくせに、塾に行く意味を見いだせないため、辞めたいと言っても辞めさせてくれず、中1からだらだらと通わされていた(よくさぼっていた)。

きっかけは忘れたが、中3の秋ごろにあまりに勉強しない僕を見て、親父が勉強を見ると言い出した。そのころは親父が怖くて逆えなかったため、いやいや勉強をさせられていた。

いやいやであったが、成績はぼちぼちと伸びていった。しかし、僕は教師に好かれるタイプではなく、嫌われるタイプ(こちらも嫌いな教師が多く、態度に出ていたのだろうが)であったので、内申はよくなく、10段階で7であった。

大阪の学区は今は少なくなってしまい、公立高校の選択肢がぐっと増えたが、僕らのころは今より選択肢が少なかった。それでも学区で3番手4番手は遠かったため、2番手高に行けないものは5番手まで落とすことが多かった。

2番手高を受けるには10段階で8が必要であり、7では受けさせてもらえなかった。はっきりいって大きなお世話で、好きなところを受けさせればいいと思うが、担任は許してくれなかった(同級生の兄が7で2番手高を受けたが、不合格であった。親が教師であり、ごり押ししたのだろう。その後、高校で頑張り、現役でKO大学に入っていた)。浪人を出したら、なんらかの評価に影響するのだろうか? 浪人したって自己責任だろう。

 

皆が受けている五木の模試を僕も受けていたが、それでは2番手高もいい評価であった。それを担任に見せたが、それでもだめだと言われた。

別にその高校にこだわりがあったわけではないが、教師に無理と決めつけられたことで、1番手高よりさらに難しい大阪星光に俺はいけていたのかもしれないのだぞというくだらないプライドが傷ついたのだろう。ちなみに評定9あった妹は1番手高も狙えたが、家から近い2番手高を選び、僕のプライドはさらに傷ついた(笑。

教師から、専願であれば1番手、2番手のすべり止めに使われる私立高校に受かるかもしれないと言われ、親がそうしろというので、そこを受けることにした。ていうか、ここで私立に行かせるんなら、中学の時に受けさせとけよ、レベルが全然違うやんけと思ったが、この時は言えなかった。

結果として、その高校に合格した。専願は僕一人であったが、併願で受けたものより僕の方が成績がよく(国語は満点だったらしく、お互い嫌いあっていた国語教師が驚いていた)、後で担任に2番手高受かったかもわからんなと言われた。

いまさらと思ったが、ちょっとだけプライドは回復した(笑。糞みたいなプライドだけど。でも、あの高校でよかったと思っている(専願候補に挙げられた3つの高校の中で一番凋落して差をつけられているけど)。

リベラルな高校で、私服で通えたので、ダブっている時も、予備校に行っているとカモフラージュできた(幸い誰も同じ中学出身者はいなかった)。あの高校でなければ退学になっていたかもしれない。子供を行かせたいかと言われれば、それはNOだが(笑。

この時期、大学進学者の高校別ランキングを載せているサンデー毎日週刊朝日はよく売れると思うが、 それをみたらわが母校(高校)から、わが母校(医学部)の合格者が一人おり、うれしくなった。復権してきているのだろうか。

 

医者になってから、飲み会で昔よくモテたでしょ?と結構言われるが、こんなやつがモテるわけがない。自分に自信を持てる要素がなく、徹頭徹尾卑屈であった。バレンタインのチョコなど義理すら貰ったことがないし、甘酸っぱい思い出もない。

小学生時にすでに性知識はある程度完成されており(小6の時に万葉集を見ながら自涜をしたと我ながらハイソなギャグを飛ばしたが、誰も笑ってくれなかった)、イベント時に興味しんしんな女子の性的な質問によく答えていたが、女子としゃべったのはその時くらいだ。

いっそ男子校に行ってれば、共学に行ってれば俺だってと言い訳ができたのだろうが、言い訳しようがない(笑。

これで僕が性犯罪を犯せば、面白おかしく過去をほじくられ、歪んだ育ちが生み出した怪物医師などと書かれるのだろう。いや、犯さないけど(笑。

 

公立の中学校は社会の縮図という表現を見た時は言い得て妙だと思った。サッカー日本代表や弁護士もいれば、犯罪者もいる(笑。しかし、他校のヤンキーが攻めてくる中学は嫌だ。

上澄みに浸っていては抗体ができず、免疫力がつかないかもしれないが、でも僕は上澄みに浸っていたかった。高校留年は後の反動への材料となったが、中学での経験は単に不快なものでしかなく、何の役にも立たなかった。

 

カタルシス目的で抑圧していた部分を抉ってみたが、Sのことを書いていると当時の屈辱が蘇ってきて、浄化しきれない怒りに身を焼いた。30年近く前のことなのに、まだ心の深いところでくすぶっているのだろうか。今更どうするわけにもいかず、昇華させてしまわないといけないのだけど。

どん底まで落として守ろうとしたプライドを、さらに徹底的に痛めつけた奴ら二人に対する怒りが、カタルシスを許してくれないようだ。怒りが持続しないタイプの人間だと思っていたので、意外でもある。

 

今日の体重は74.9㎏。スペアリブを食べる前に測った体重だが、久しぶりの74㎏代。しかし、今日食べ過ぎた。

まあまあ暗黒の中学時代④ 中3 part1

今日は嫁と子供たちが、長女の幼稚園の友達家族数組とお別れ旅行に行っているため、家で一人。いつもはうるさい家が、静かでゆっくりできる反面、寂しい気持ちもあり。

 

続きを書く。

この1年が最悪だった。Sは背は高くないが、シニアリーグで野球をやっていてがっちりした体形をしていた。元々は粗暴ではなかったらしいが(先輩に胸倉を掴まれて泣いていたし、小学校の頃も遊びの野球でピッチャーが出来なかったら泣いていたらしい)、小学生の時に母親が亡くなった(自殺という噂もあり、彼なりに心労はあったのだろう。だからと言って彼の行動が正当化されるわけではないが)後から、おかしくなったらしい。

野球を真面目にやっていて、体力はあったため、自分がある程度強いことに気づいたのだろう。泳ぐのをやめると死んでしまう魚のように、人を殴らないと死んでしまうのかのごとく人を殴っていた。呼吸するように人を殴っていた。

 

Nはさほど暴力的ではなかったが、Sには散々殴られた。理由なんてないことが大半で、席に座っているだけで殴られたし、唾もかけられた。クラスには他にも殴られている者が何人もいたので、殴られ仲間と休み時間ごとに違うクラスに避難していたが、そこにSが来るようになり、トイレくらいしか行くところが無くなってしまった。

同じ境遇で育っても、一つ下のSの弟は人間ができており、一度塾の帰りにSの弟の前で殴られた時は、同じ野球部の後輩であったため、すいません、止められなくてと後で謝られた。

 

Nもそうだが、僕のことが嫌いならほっといてくれればいいのに、修学旅行は一緒の部屋にさせられたし(もちろん寝る前、起床時と殴られた)、文化祭の係りも一緒にやらされた(僕一人が仕事をし、特に問題なく終わったが、教師に何か言われたとのことで殴られた。余計なこと言うなと教師にむかついた)。

母親がいないため、弁当を持ってきておらず、購買のパンに飽きたSに、僕は学校近くのジャスコマクドナルドに昼食を買いにパシらされていた。これが嫌で仕方なかった僕は、自分の弁当を差し出したが、おまえんちの弁当まずいねんとひっくり返された。

プライドを地べたに這わせて、怒りを抑えようとしたが、それでも抑えきれなかった。しかし、僕にできるのは卑屈に笑うことだけであった。

それでも一度だけ逆らったことがある。殴られた後、軽く殴り返したら、トイレに連れ込まれて、数人がかりでぼこぼこにされた。それ以降、僕は逆らわなくなった。

 

この一年で過敏性腸症候群になり、しょっちゅう下痢するようになった(今に至るまで引きずっている)。学校の教師は無能だらけで、僕以外もひどい目にあっているのに、この事態にまったく気づいていなかった(気づいていて知らないふりをしていたのかもしれないが)。

こういう時、親に頼ればいいと、僕も他人事であれば思うが、親にはどうしても言えなかった。親に言って解決するのだろうか?、余計エスカレートしないだろうか?、息子がいじめられていると思うと親が悲しむだろうし、情けない思いをするだろう、知られるのが恥ずかしい。

これはどれも正解ではないが、不正解でもない。こういった思いが複合的に絡み合って、親に言うことはできなかった。親もうっすらおかしいなと思っていたらしいが、はっきりとは気づいていなかった。

私立中学を受けさせてもらえなかったのを最も恨んだのはこの時期だ。中3の1年は高校をダブっている1年よりも辛かった。途中で、成績別にクラス替えをするという話が出て、結局されなかった時は過度に期待した分、ひどく落ち込んだし、Sが野球留学をするため、少し早く高校がある県に行くという噂が流れ、結局最後までいた時も同じくひどく落ち込んだ。

 

Sは野球留学をしたものの、結局甲子園には出ることができず、プロにもなれなかった。今何してるかは知らない。拳法で黒帯を取り、もっとも闘う身体になっていたころ、偶然Sに出会って、一発殴ってくれないかな~、そうすれば正当防衛になるのにと妄想していたが、実際Sに会うと、恐怖が蘇って、震えてしまうだろう。これはどんなに強くなっても変わらないと思う。

 

今日の体重は76.2㎏。ナッツは30gに抑えたが、昼間の院内カンファレンスで出た弁当がとんかつ弁当で、夕食に食べたところ非常に重かった。

まあまあ暗黒の中学時代③ 中2

今日は長女の卒園式に出た。一人一人卒業証書を手渡していたが、嫁がうちの娘の順番が来るだいぶ前に泣き出して、それを見た次女が嫁が使っているハンカチを取ろうとしてもみ合っていた。

何してんねん、この二人は、しかも泣くタイミング早いしと思っていたが、もみ合いはなかなか収まらず、うちの娘の番が来た時もまだもみ合っていた。

後、印象に残ったのは理事長の祝辞で、先日だした自叙伝の話しが八割以上を占めており、自画自賛と是非読んでくださいという宣伝に笑ってしまった。どうせならただで配ってくれればいいのに、アマゾンで売ってますからと言っていた(笑。

祝辞の意味を考えさせられた。

 

続きを書く。

Nはサッカー部で、サッカー部は強豪であったため、部活がある時は真面目に練習をしていた。一緒のクラスになってみると、たちが悪いのは悪いが、面白いところもあった。

ただ、サッカー部あるあるだが、昼休みのサッカーで隣のクラスと対戦していた時、お遊びサッカーでも手を抜くことができず、負けたりすると皆に怒鳴り散らしていた。強制参加であったので、結構きつかった。

辛かったのは、テスト期間のため部活がない時で、放課後はほぼ毎日家に呼び出されていた。断ると何をされるかわからないので、行かざるを得なかった。僕自身、勉強は放棄していたが、それでもテスト前にちょろっと勉強するだけで、まあまあの成績はとっていた。

しかし、この時はそれすらままならず、成績はどんどん落ちた。彼の家ですることは、彼が住んでいるマンションから卵を通行人に投げるとか(彼はサッカー部なのに野球部の僕よりコントロールがよく、肩も強かった)、いたずら電話、ゲームなどくだらないことばかりであった。

家に帰りたいが、なかなか帰してもらえず、ベランダに数時間閉じ込められたり、痰入りのトマトジュースを飲まされたり(これはトラウマとなり、トマトジュースがいまだに飲めないし、トマトも食べられない)と悲惨な目にもあった。

 

中2の時もひどい目にあわされたが、彼にひどい目に合わされたのはむしろ高校に入ってからだ。僕らが中3の時、サッカー部は全国大会に出場したが、Nはレギュラーであり、高校も強豪校に推薦で入った。しかし、彼は珍走団に入り、高1の時に3ケツして暴走中に警察に終われ、逃げている時に高架から落っこちて、足を激しく損傷した(知らない者だが、一人は命を落としたらしい)。後遺症が残るほどのケガで、歩行は可能であるが、サッカーはもうできなかった。

高校は退学し、長期入院を余儀なくされた。退院して、珍走団に復帰したころ、僕はバイクの免許を取り、バイクに乗っていた。僕が乗っていたのはVFR400R(NC30)というバイクでレーサーレプリカであり、珍走団に好かれるバイクではなかった。

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きっかけは忘れたが、高2のころ、僕がバイクに乗っていることがNにばれ、また呼び出されるようになった。

そのころNは隣県に住んでいたが、そこにはあまり友達がいないため、こちらの地元へしょっちゅう来ていた。珍走団の集まりにつれて行かれて、知らない族にバイクを乗り回されたり、警察に追っかけられたり、以前も書いたがラリっている集団に囲まれて、かめはめ波が出るから見とけと言われて見させられたり、鑑別所のパンはまずいという話を延々聞かされたり、トルエンを吸わされたり(頭が痛いだけでまったく気持ちよくなかった)、隣県の自宅までしょっちゅう送らされたり(僕は最短記録を持っている。信号無視を強要させるので怖くて仕方なかった)とまあ、碌なことはなかった。

ある日呼び出された時に、首を寝違えて行けないというと、OO会(彼が属している珍走団)の皆でお前んちに攻めていくぞと言われ、仕方ないので行った。悪戦苦闘しながらヘルメットをかぶっていると、役者やのう、劇団四季に入れや、ぼけがと殴られた。

他にも色々あったが、だいぶ忘れてしまったし、さすがに書くのがはばかれることもある。

 

うちのおかんは僕と違い、闘う人だったので、Nがかけてきた電話に代わりに出て、N相手に一歩も引かず、最終的には一目置かれ、僕はようやくNから解放された。

2ちゃんねるのOO(地元)のアウトローなどというスレッドにはNの名前がちらほらと出ていたりした。Nは会社を興したが、社員を監禁した罪で塀の中へ堕ちた。今は出所してまた別の会社を興している模様。もう二度と会うことはないだろうけど、遠目からちょっとだけ見てみたい気もする(笑。

 そして2年が終わり、3年になった僕のクラスには‥NはいなかったがSがいた。嫌な予感がしたが、その予感は現実のものとなった。

 

今日の体重は77.7㎏。卒園祝いに皆で焼き鳥屋に行ったが、そこで食べすぎた。

まあまあ暗黒の中学時代② 中1

昨日は、上の先生が挿入困難例の盲腸ESDをしようとしていたが、オリンパスのオーバーチューブを使っても挿入できないため、ヘルプに呼ばれた。DBEでオーバーチューブには慣れているため、オーバーチューブで腸を短縮し、盲腸へ。

本日は、他院で癒着と憩室の影響で挿入できない症例が回ってきたが(先生じゃないとと言われて持ってこられたので、そうかあ?と乗せられておいた)、5分でTCS。ただし、細径のスコープを用いた。

他人が入らない症例を入れると脳汁がでるが、今回はいずれも僕の腕というよりはスコープのおかげだ。

 

続きを書く。

望んで入学したわけではないが、中1の時はまだ楽しかった。しかし、隣のクラスにたちの悪いのが二人いて、それぞれNとSとする。

この二人さえいなければ‥。

ある日の放課後、僕は数人と4Fでしゃべっており、下にいた同じクラスの者に、つばをかからないように落としたり、声をかけておちょくったりしていた。すると3FからSが顔を出して、おまえら、なにしてんねん、しばくぞと言ってきたので、うっとおしいなと思い引っ込んだ。

その日はそれで終わったが、数日後、一学年上の先輩に呼びされた。行ってみると、Sが先輩に胸ぐらをつかまれており、泣いていた。そして、僕が来たのを見て「こいつです、こいつです。」と言った。

話を聞いたところ、校舎から誰かが吐いた唾がその先輩にかかり、その犯人としてSが疑われて、問い詰められていた。そこでSが僕の名前を出したらしい。しかし、僕はかけておらず、それは一緒にいた数人や下にいた同級生も知っていることだし、先輩に唾吐いたか?と聞かれた時に、その事実を答え、一緒にいたものに証言してもらった。

僕はそこで解放されたが、その後Sのクラスに休み時間ごとに呼び出され、10人ぐらいに囲まれてやったのお前やろ?、言えやとNとSに脅され続けた。この時の細かいことはよく覚えていないが、すごい恐怖であり、無理矢理先輩に謝罪に行かされた記憶がある、しかし、先輩は僕がやったとは信じず、言わされていると見抜いていた。

その後もしばらくSのクラスに呼び出され、大人数に囲まれてNとSに脅され続けた。同じクラスの弁護士になった同級生に何回か助けてもらった。ある時は股間をNに殴られて、痛みはさほどではなかったが、しばらく射精をした時に血が混じった。

 

おそらく犯人はSなのだろう。今となっては真偽は定かではないし、どうでもいいが、この事件がNとSにロックオンされたきっかけだった。

自分で思うが、僕は一本筋の通ったところがない。人の顔色をうかがい、合わせるところがある(今もその傾向はある)。そのくせ、ちょっといきりたいところもあるため(不良への憧れはそこそこあり、ビーバップハイスクール湘南爆走族などのヤンキー漫画は結構好きであった)、この手のタイプには目を付けられやすい。さらにごっついびびりだ。

それは自分でもわかっていたから、子供のころに空手を習わせてくれと頼んだことがあるが、おかんに一蹴された。体が強くなり、闘う技術が身につけば、心も強くなると思っていた(日本拳法をやって、全く関係ないことがわかったが)。中学時代など大して強くなくても武道をやっているというだけで、一目置かれていたので、習うだけ習っていれば変わったかもしれないけど。

そして2年になった時に、同じクラスにNがいて絶望的な気持ちになった。7クラスもあるのに。自分の運の悪さを呪った。

 

今日の体重は76.3㎏。ワイドではないが、懸垂が7回できるようになった。ナッツを食べすぎないように計量器を買った。

まあまあ暗黒の中学時代① プロローグ

前回のブログで、救急車の思い出を書いたら、カタルシスがうまくいき、意外とすっとした。そもそもこのブログの主目的はカタルシスであるので、目をそらしていた中学時代を抉ってみようと思う。

 

そうはいうものの、中学時代はあまり人間的に成長しておらず正直思い出したくはない。僕より悲惨な中学時代を送った人は珍しくなく、特にひどかったと強調するつもりもないが、僕にとっては高校をダブっている時よりも無駄な時間だった。

勿論周りだけが悪いわけではない。自分も悪いのはわかっている。しかし、人生をやり直せるのであれば、あの中学には行きたくない(可能であれば今の僕が学費を出して私立中学を受験させたい)。卒アルも落書きしまくって捨てた。

 

小学生のころから地元の公立中学に僕は行きたくなかった。結構荒れていると評判であったし、ふわふわした僕は優秀な者が周りにたくさんいて、皆が切磋琢磨している環境に身を置かないと安易な方向へと流されてしまうと小学生ながらに考えていた。

今の同僚は皆教育熱心で、子供の大半は塾へ通い、進学校へ進んでいる。医者は自分たちが学歴で守られていることを知っているから、子供たちにもそのルートを歩ませようとする。これには是非があるだろうが、大多数の凡人にとっては優しい道だ。

 

どこかで書いたが、うちの親父はさほど優秀でない公立高校から、公立大学の医学部に入った。一浪しているが、当時珍しかった予備校に通っていた。

昔ながらの長男偏重な家で、親父の名前には祖父の名前の一文字が含まれているが、弟二人はじろう、さぶろうだ。僕にもその一文字は入っているが、僕は長男にその一文字を入れなかった(親父は少しさびしそうだったが、まったく意味を見いだせなかった。嫁は入れなくていいの?と言っていたが、必要ないと答えた)。

従兄は僕より一つ上と一つ下だが、僕が長男の長男であるとのことで、祖母からのお年玉は一番多かった。子供ながらに気まずかった。親父は浪人までさせてもらっているのに、弟二人は高卒と高校中退だ。昔は羽振りがよかったらしいが、没落しており、そんなに裕福な家ではなかった。

 

話はそれたが、こんな家で育っているから、親父は自分が一番であり、自分の思う通りにしないと気が済まなかった。自分が好きなようにお金を使うことが一番大事で、おかんも給料の一部しか渡されておらず、給料明細も見たことがないと後で知った。

自分が医師免許に守られているくせに、子供の教育に全く熱心ではなく、興味を持たなかったが、僕が自分から希望し、6年生から塾に通うことになった。

学校で習う内容と違うことばかりであり、カルチャーショックを受けたが、その分勉強は楽しく、自主的に結構勉強していた。これまで勉強をしていなかった分、成績はいい感じで伸びていき、模試でも大阪星光に受かるかな?というくらいまで伸びていった。

自分の意見をいうことはほとんど許されていなかったが、僕はここで初めて私立中学に行きたいと自己主張をした。しかし、許してもらえなかった。

表だって反対したのは母親で、そんなとこ行ったら、勉強しかしない傲慢で碌でもない人間になるというのが理由だった。勉強すらしない怠惰な人間になるよりはよっぽどましだと思うが、そういう冗談を抜きにしても、到底納得出来なかった。

僕の個人的見解で、一般化するつもりは毛頭ないが、大学の同級生や同僚を見ても、進学校出身者より、しょぼい高校でダントツだった者の方が問題が多かった。

長じてから、あれはおかしいとおかんに言ったところ、上記理由はおかんの本音でもあるが、それだけでなく、単純にお金がなかったらしい。親父が好きなように使っていて、おかんにはごく一部しか渡っておらず、また当時は知らなかったが、家庭の事情もやや複雑(親父はバツイチで僕には会ったことのない異母兄がおり、そちらに養育費を払っていた)で、色々入用でもあった。

親父は生活費を僕らの目の前でおかんにわたしていたが、それは僕からすれば大金であり、僕はうちはそこそこ金持ちだと思っていた(親父がそう誘導した節はある)。しかし、親父はおそらく月に数十万円自由に使っていたが、家には一部しか入れていなかった(僕はこれを反面教師にして、明細は嫁に渡しているし、お小遣い制で、額は高校生の時より少し多い程度だ)。

 

親に意見を言える雰囲気ではなかったが、それでも僕は何度も受けさせてくれと頼んだ。親父のイメージ操作でうちにお金がないとは夢にも思っていなかったので、到底納得できなかった。

おかんが親父に僕が私立中学に行きたがっていると言ったらしいが、親父は一蹴したらしい(その気になったら通わせられたと思うが、出したくなかった様子)。おかんが国立の中学なら行ってもいいよと言ってきたが、その時には募集は終わってしまっていた。そもそも入試に抽選があって、抽選で落ちたら目も当てられないと思い、受ける気は最初からなかった。

私立中学に行くと吹聴しまくり(その影響で別の同級生も私立中学を受けた)、結局受けすらしなかったので、後で色々言われた。

 

ここで強靭な人間なら高校で逆転してやると思うのだろう。受けて落ちていれば、僕もそう思ったかもしれない。しかし、脆弱な僕は勉強しても報われないなと心に刻み込み、それ以降勉強を放棄した。

今は親には感謝している。見捨てないでよく育ててくれたと思う。おかんには頭が上がらないし、見た目は真面目なアナウンサーぽい外見なのに、なかなかデカダンな親父にも反面教師にしつつ感謝の気持ちの方が強い。それでも僕の中学の進路に関しては間違っていると思う。せめて受けさせておくべきだった。

そしてまったく希望しない公立中学校へ進学した。 

 

今日の体重は76.9㎏。ナッツ食い過ぎたかな。