生きよ 堕ちよ

高校留年~プータロー~文系大学~再受験し医師~内視鏡に魅せられ消化器内科へ

まあまあ暗黒の中学時代④ 中3 part1

今日は嫁と子供たちが、長女の幼稚園の友達家族数組とお別れ旅行に行っているため、家で一人。いつもはうるさい家が、静かでゆっくりできる反面、寂しい気持ちもあり。

 

続きを書く。

この1年が最悪だった。Sは背は高くないが、シニアリーグで野球をやっていてがっちりした体形をしていた。元々は粗暴ではなかったらしいが(先輩に胸倉を掴まれて泣いていたし、小学校の頃も遊びの野球でピッチャーが出来なかったら泣いていたらしい)、小学生の時に母親が亡くなった(自殺という噂もあり、彼なりに心労はあったのだろう。だからと言って彼の行動が正当化されるわけではないが)後から、おかしくなったらしい。

野球を真面目にやっていて、体力はあったため、自分がある程度強いことに気づいたのだろう。泳ぐのをやめると死んでしまう魚のように、人を殴らないと死んでしまうのかのごとく人を殴っていた。呼吸するように人を殴っていた。

 

Nはさほど暴力的ではなかったが、Sには散々殴られた。理由なんてないことが大半で、席に座っているだけで殴られたし、唾もかけられた。クラスには他にも殴られている者が何人もいたので、殴られ仲間と休み時間ごとに違うクラスに避難していたが、そこにSが来るようになり、トイレくらいしか行くところが無くなってしまった。

同じ境遇で育っても、一つ下のSの弟は人間ができており、一度塾の帰りにSの弟の前で殴られた時は、同じ野球部の後輩であったため、すいません、止められなくてと後で謝られた。

 

Nもそうだが、僕のことが嫌いならほっといてくれればいいのに、修学旅行は一緒の部屋にさせられたし(もちろん寝る前、起床時と殴られた)、文化祭の係りも一緒にやらされた(僕一人が仕事をし、特に問題なく終わったが、教師に何か言われたとのことで殴られた。余計なこと言うなと教師にむかついた)。

母親がいないため、弁当を持ってきておらず、購買のパンに飽きたSに、僕は学校近くのジャスコマクドナルドに昼食を買いにパシらされていた。これが嫌で仕方なかった僕は、自分の弁当を差し出したが、おまえんちの弁当まずいねんとひっくり返された。

プライドを地べたに這わせて、怒りを抑えようとしたが、それでも抑えきれなかった。しかし、僕にできるのは卑屈に笑うことだけであった。

それでも一度だけ逆らったことがある。殴られた後、軽く殴り返したら、トイレに連れ込まれて、数人がかりでぼこぼこにされた。それ以降、僕は逆らわなくなった。

 

この一年で過敏性腸症候群になり、しょっちゅう下痢するようになった(今に至るまで引きずっている)。学校の教師は無能だらけで、僕以外もひどい目にあっているのに、この事態にまったく気づいていなかった(気づいていて知らないふりをしていたのかもしれないが)。

こういう時、親に頼ればいいと、僕も他人事であれば思うが、親にはどうしても言えなかった。親に言って解決するのだろうか?、余計エスカレートしないだろうか?、息子がいじめられていると思うと親が悲しむだろうし、情けない思いをするだろう、知られるのが恥ずかしい。

これはどれも正解ではないが、不正解でもない。こういった思いが複合的に絡み合って、親に言うことはできなかった。親もうっすらおかしいなと思っていたらしいが、はっきりとは気づいていなかった。

私立中学を受けさせてもらえなかったのを最も恨んだのはこの時期だ。中3の1年は高校をダブっている1年よりも辛かった。途中で、成績別にクラス替えをするという話が出て、結局されなかった時は過度に期待した分、ひどく落ち込んだし、Sが野球留学をするため、少し早く高校がある県に行くという噂が流れ、結局最後までいた時も同じくひどく落ち込んだ。

 

Sは野球留学をしたものの、結局甲子園には出ることができず、プロにもなれなかった。今何してるかは知らない。拳法で黒帯を取り、もっとも闘う身体になっていたころ、偶然Sに出会って、一発殴ってくれないかな~、そうすれば正当防衛になるのにと妄想していたが、実際Sに会うと、恐怖が蘇って、震えてしまうだろう。これはどんなに強くなっても変わらないと思う。

 

今日の体重は76.2㎏。ナッツは30gに抑えたが、昼間の院内カンファレンスで出た弁当がとんかつ弁当で、夕食に食べたところ非常に重かった。