教授に研究は進んでいるか?と言われた。
‥抄読会当てられて、地方会の発表も当てられて、糞難しいESDばかり当てられて、日曜に日当直のバイト行ってんのに進むわけないが、ぼちぼちですと答えておいた。
いや、前病院勤務時はもっと忙しかったが、自主的に学会発表はたくさんしていたし、論文も書いていた(ケースレポートだけど)。
正直な話、研究内容がしょーもなさ過ぎてやる気がしない。面白い内容なら頑張れるが、これ何の意味があんねん?と思ってしまう。学位を欲しいと思っていないのも大きい。
ここの大学は英語の論文一本書けば学位がもらえる(某帝大は激烈に厳しいらしく、院に行っても取れない者もいるらしい)ので楽なのだが、それすらめんどくさい。教授にウン十万包まないといけないらしいし。なんで年収が億を超えているという噂の教授に足元にも及ばない年収の僕が包まないといけないのだろうか? ばかばかしい。
この画像がツイッターで話題になっているらしい。
まず前提の『すべての人には非凡な才能がある。』に強い違和感を感じる。この前提では非凡な才能がない者が劣等感を抱く可能性がある。
非凡をどの程度のこととしているのかわからないが、魚が泳げる程度を非凡というのだろうか? そして仮に皆非凡な才能があるとしても、その非凡な才能を発掘するのは容易なことではないし、また才能が実を結ぶのには時間がかかる。
今の教育制度で学校教育とは別なところで才能を発揮することが不可能かと言えばそうではない。突き抜けた才能の持ち主はそこを超越して自己実現している。僕がイメージする非凡な才能というのはこういう才能だ。
今の教育システムを揶揄しているつもりらしいが、木に登るという比喩は愚劣だ。こういう上から目線批判のいただけない所は代替案が提示されていないところだ。投げっぱなしジャーマン(笑。
全てが有用とは言わないが、義務教育のおかげで大多数の人は字が読めるし、簡単な計算もできる。皆が皆大学に行く必要はないと思うが、今の教育以上にbetterな方法があるだろうか?
ていうか、皆非凡である必要はない。99%以上の人は凡人だ。一部の非凡がブレイクスルーさせ、大多数の凡人がその恩恵にあずかることを歴史上繰り返してきている。医者だってそうだ、皆が名医、スーパードクターである必要はない。新しい治療法、薬を非凡が考え、僕のような凡医がそれを実践する。それでええやん。
道を自分で作っていく才能がない者にとってレールがあることは安心だ。レールからいったん外れた人間だからよくわかる。もっと戻りやすくしてもいいと思うけど(笑。
今日の体重は78.4㎏。玄米がうまい。 昔、米不足の時にインディカ米を食べていたが、あれも好きだった。